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東京芸術劇場コンサートオペラvol.6

藤倉大/歌劇『ソラリス』全幕 *日本初演・演奏会形式
日本語字幕付原語(英語)上演

東京芸術劇場 公演関連レクチャー『ソラリス』藤倉大×沼野充義 対談

2018年9月22日
「作曲家」藤倉大×小説『ソラリス』翻訳 沼野充義 レポート(PDF)

【作曲家】藤倉大インタビュー

あらすじ

第1幕 1日目

惑星ソラリスの表面を覆っている海は、人間の理解を超えた巨大な脳のようなものである。
この海の謎を解き明かすため、科学者たちがソラリスへと送られたが、そこではいくつもの事故や混乱が起きていた。心理学者クリス・ケルヴィンは、その状況を調査するためソラリス・ステーションを訪れるように命じられたが、そこで彼は様々な異常現象を目の当たりにする。人工頭脳学研究者のスナウト博士は不安と恐怖を感じており、残されたメッセージからクリスの友人ギバリアンが死亡していることを知る。

第2幕 2日目

10年前に自殺したクリスの妻ハリーが、彼の前に姿を現す。2人は会話するが、クリスは目の前にいる彼女が本物とは信じられず、疑念を抱いている。ハリーは自分自身を傷つけようとする傾向があり、彼女自身そのことに不安を覚えている。ハリーの気持ちを理解しようとするクリス。しかし目の前のハリーはソラリスの海がクリスの記憶から作り出されたコピーであるというスナウトの分析を聞いて、クリスは驚く。彼らの会話を盗み聞きしていたハリーは、全てを理解することができず、自分が無価値であることを悟る。彼女は絶望するが、クリスへの想いはますます強くなるのだった。

第3幕 3日目/その真夜中

スナウトは目の前にいるハリーに、あなたは死んだハリーのコピーでしかないと告げる。自分がコピーであることは知っているが、たとえそうだとしても私はクリスを愛していると悲しみに沈みながら主張するハリー。どうすべきか分からないクリスは、夢の中でギバリアンと話すが、彼の不安はさらに高まっていく。ハリーは液体酸素を飲んで自殺しようとするが、失敗に終わる。ハリーの悲しみはピークに達し、死ぬことさえできない自分にできることは何かとクリスに問いかける。クリスにできるのは、彼女を自分の腕の中に抱くことだけだった。

第4幕 1週間後/数週間後

スナウト、クリス、ハリーは、虚しく彷徨っている。出口の見つからないジレンマに満ちた日々が過ぎていく。クリスとハリーは、互いに大きな不安を抱えながらも、まるで何もなかったかのように過ごしている。昼が過ぎ、夜が過ぎていく。ソラリスの海面は、ゆっくりと波打っている。ある日、クリスが目を覚ますと、ハリーがいなくなっていることに気付く。ハリーはスナウトに自分を消滅させてほしいと頼んでおり、ニュートリノ実験が行われたのだ。スナウトはもう二度と“コピー”は戻らないと言い、クリスはそれを信じるのだった。

第4幕 その翌日

クリスは一人でソラリスの海に向き合うことを決意する。希望だけがハリーがクリスに残した唯一のものであり、その希望とともに彼はソラリスに留まって新たな人生を送ることを決断する。たとえその先に、さらなる苦難が待っていようとも。「私の旅は終わるのだろうか? それとも私は永遠の中に留まるのだろうか?」


スタニスワフ・レムと『ソラリス』について
藤倉大氏のオペラ日本上演に寄せて

沼野充義

ルヴフから来た人

 藤倉大氏のオペラ『ソラリス』の原作者、スタニスワフ・レムStanislaw Lem(1921-2006)はポーランドのSF作家である。日本ではポーランド文学は残念ながらかなり「マイナー」な分野であり、しかもSF(サイエンスフィクション)という「ジャンル」に分類されるので、縁のない人はまったく知らない、知る人ぞ知るいわゆる「ニッチ」な作家と言えるかもしれない。
 しかし、レムは実際には20世紀ポーランドが生んだ最も有名な作家であり、これまで世界の40カ国語以上に著作が翻訳され、その総売り上げ部数は3000万部にのぼるという(レム公式サイトによる)。日本でも代表作『ソラリス』はもちろんのこと、それ以外の代表作も大半が翻訳されているので、日本で最もよく知られたポーランド作家なのである。もちろん人気が高いというだけではない。レムの多彩かつ旺盛な著作活動は狭義のSFの枠を越え、自然・人文科学の広範な領域にまたがっており、彼の小説はいまや20世紀の世界文学の古典としての地位を獲得していると言えるだろう。
 レムは主としてSFのジャンルで、国籍や国民文化も超えた未来の科学技術と宇宙のことを書いた。それゆえ、彼自身が具体的にどのような場所からやって来て、どのような歴史を生き抜いたかについては、あまり注意を払われないことが多い。しかし実際には彼は、20世紀の苛酷な歴史の結節点とも言うべき場所に生まれ育ち、その中で自分の世界観を鍛え上げてきたのである。
 レム自身の自伝小説『高い城』には、彼の郷里の町ルヴフでの幼年時代の記憶と感覚が濃密に描かれている。この町は、現在はウクライナ領で、町の名前もウクライナ語風に「リヴィウ」と表記されることが多いが、レムが生まれたときはポーランド領だった。ところが第二次世界大戦中、ナチス・ドイツやソ連に次々に占領されて目まぐるしく帰属を変え、戦後は最終的にはソ連のウクライナ共和国領となった。いわば、東ヨーロッパの文明の交差点のような町である。レムはこの「辺境」の町に育ちながら、いかなる政治体制も決して永遠ではなく、どんな価値でもあっという間に崩壊してしまうという「二十世紀の本質」を、もっとも凝縮された形で実地に学んだのだった。
 ルヴフには多くのユダヤ人が住んでいたが、その大多数がナチス・ドイツの収容所に送られて殺された。レム自身もユダヤ人だが(父は裕福な医師だった)、ホロコーストの展開を身近に目撃しながら、辛うじてその運命を逃れ、戦後ルヴフがソ連に組み込まれた際、強制的にポーランド本国に移住させられた。そして、古都クラクフの名門ヤゲロン大学で医学を学んだ後、作家としてデビューしてたちまち頭角をあらわし、世界的なスター作家となった。しかし、レムが戦後ポーランドで作家活動を行った時代の大部分は社会主義体制下で、レム自身は戦後間もないころのスターリン時代から、様々な動乱を経て、ついに社会主義体制が崩壊するに至る過程のなかで執筆を続けなければならなかった。このような時代にレムは、表面的には世界的作家としての名声を享受するように見えながら、じつは不断の権力との軋轢や検閲との闘いのうちにあったのである。
 レムの残した著作は多彩かつ膨大で、2005年、ポーランドでは亡くなる一年前に全33巻の著作集の出版が完結した。その中にはシリアスなSF長編から、諧謔と風刺の精神に満ちた短編連作、科学・哲学評論から文明論、時事評論に至るまで、じつにさまざまなジャンルのものが入っている。しかし、この踏破しがたい巨大な山を思わせる著作の全体を、一本の筋のように貫いているものがあるように思う。それは人間の理性の限界を見定めようとする透徹したまなざしであり、理性の限界の外に広がる宇宙の驚異に対して自らを開いていこうとする姿勢である。
 その強くてしなやかな知性は、激動の東欧史によって鍛え上げられたものに他ならない。彼の作品の背後には、戦争に翻弄され、国境線が何度も書き直され、ホロコーストの脅威にさらされ、確実なものなど何一つないという状況のなかを生き抜いてきた経験があるのだ。
 このような作家の小説を読む体験は単なる読書というよりは、読者に一種の認識論的転換を求めるものであり、レムを読んだ後、世界が前とはちょっと違ったふうに見えるはずだ。レムに現代の「予言者」のような風貌がそなわっていたとすれば、それはホロコーストの悪夢にも全体主義の狂気にも冒されずに生き抜いてきた透徹した東欧の知性だからこそのことだろう。

『ソラリス』――プロットとテーマ

 長編『ソラリス』は1961年に発表された長編小説。レムの代表作として知られ、世界の40カ国語以上に翻訳されている。20世紀SF史上不動の地位を占める古典だが、いまだにその先鋭性を失っておらず、広く読まれ続けている。つい最近でも、2014年発売の『S-Fマガジン』(早川書房)創刊700号記念号で発表された読者投票による「オールタイム・ベストSF」では、海外長編部門の第一位に選ばれている(なお、この作品の邦題は、かつての翻訳では『ソラリスの陽のもとに』、またタルコフスキー監督の映画化では『惑星ソラリス』となっているが、原題はシンプルなただ一言、『ソラリス』Solarisである)。
 時代設定ははっきりとは示されていないが、小説が書かれたときからおそらく百数十年以上は先の未来である。登場人物の国籍も示されず、緊迫した物語は、地球を遠く離れた宇宙空間で展開され、地球の光景は一切出てこない。「ソラリス」というのは二重星の周りを公転する惑星で、この惑星が発見されて以来、その謎めいた性格が解明されることはなく、人類は1世紀以上にわたって膨大な観察と仮説と分析を積み上げてきた。物語は、このソラリスの上空に浮かぶ観測ステーションに研究員として着任した心理学者クリス・ケルヴィンを中心に展開する(登場人物の名前もすべて、いわば「無国籍」的であって、特定の国籍とは結び付かない)。人類にとって最大の謎は、この惑星のほぼ全域を覆う原形質状の「海」だった。これは二重性の軌道を安定させるという不思議な能力を発揮しているらしいということが分かり、高度な知能を持った生命体ではないのか、という仮説のもとに、人間とのコンタクトも様々な形で試みられてきたのだが、すべて失敗に終わっている(この点では、地球外生命との初めての遭遇を扱う、SFではお馴染みの「ファースト・コンタクト」の物語の枠にはいちおう収まっている)。
 ケルヴィンが乗り込んできた宇宙ステーションでは、異様な事態が起こっていた。ここには様々な専門を持つ三人のソラリス研究者が駐在して研究を進めていたはずなのだが、そのリーダー格のギバリャンはケルヴィンの到着の直前に何らかの「事故」で亡くなっていた(やがて自殺であったことが判明する)。彼を迎えたサイバネティックス学者のスナウトも異様に怯えた様子だし、もう一人の物理学者サルトリウスは自分の実験室に閉じこもったきりで、ケルヴィンに会おうともしない。
 こうして読者はいきなり、宇宙の閉鎖空間で生じている緊迫した謎めいた状況に投げ込まれ、ケルヴィンとともに、ここに何が起こっているのかを探求する冒険に乗り出し、未知との遭遇を果たすとともに、人間自身の認識の限界という問題にも直面させられる。やがて分かってくるのは、ソラリスの海には、どうやら人間の脳内に秘められた記憶を掘り起こし、そのデータをもとにイメージを実体化するという、人間をはるかに超えた能力が備わっているということだ。しかも海が探り出してくるのは実際にあったことばかりではないらしい。絶対に人には言えないおぞましい妄念のようなものまで引っ張り出し、実体化してしまうのである。こうしてギバリャンの前には巨体の黒人女が現れ、サルトリウスには小人か子供のようなものがまつわりついて、離れない(ただしその姿は、皆の前には現れない)。最後まではっきりしないのだが、スナウトも何か異様なものにとり憑かれているらしい。ステーションに滞在している研究者たちがパニックに陥り、ギバリャンが自殺にまで追い込まれたのも、すべて海が送ってくるこの謎の「幽体」のせいだった。邦訳では「幽体」となってはいるのもの、これは幽霊や幻覚ではなく、実体を持って物理的に存在するものだ。
 そして、新しくステーションにやって来たケルヴィンのもとには、かつて言い争いの末、けんか別れして自殺してしまった妻の(ただし実際に妻であったかどうかははっきりしない)ハリーが、死んだときそのままの若い姿で出現する。ケルヴィンは彼女の自殺が自分のせいだと考え、自責の念にずっと悩まされてきた。新しく現れたハリーは、もちろん本物の人間ではなく、ソラリスが本物そっくりに複製した「幽体」に過ぎない。驚き恐怖を抱いたケルヴィンは最初、ハリーに睡眠薬を飲ませたり、小型宇宙船に乗せて宇宙に飛ばしたりして、この幽体を「処分」しようとする。また自分が本物の人間ではなく、ケルヴィンの邪魔になるだけだと悟った幽体ハリー自身も、液体酸素を飲んで自殺を試みる。しかし、そのいずれの試みも完全な失敗に終わる。幽体は人間ではなく、不死身であり、どんなに傷つき、破壊されても、すぐに再生してしまうからだ。
 このような苦しい経験を経て、ケルヴィンとハリーは互いに愛し合い、苦しむようになってゆく。幽体を破壊しようとする研究者たちは、最後には幽体の体を構成しているニュートリノ場を破壊する装置を試すことになり、ハリーは自己犠牲的に自らこの装置にかかって消滅する。しかしソラリスの「海」は、人間の愛や苦しみをよそに、単に自己運動を繰り返すだけである。なぜ幽体を送ってよこしたのか、その動機すら分からず、コンタクトは成立しない。こうして人間にはまったく不可解な「知性体」との接触の失敗を通じて、人間の存在そのものに対する根源的な問いが投げ掛けられることになる。私は一度、晩年のレムに、この作品について、日本の読者に対してのメッセージを求めたことがある。彼からの返事には、こんな言葉があった――「『ソラリス』の作者である私にとって大切だったのは、存在している何者かと人間の出会いのヴィジョンを作り出すことでした。その何者かは、人間よりも強力な存在であり、人間の持っている概念やイメージには決して還元できないのです」。ソラリスの海を、決して人間中心主義のメロドラマに還元してはいけない、という強い主張が響いている。

『ソラリス』を超えて――様々なアダプテーション

 数多いレムの著作の中でも最高傑作の誉れ高い小説であるだけに、『ソラリス』はこれまでも既に多くの他ジャンルの芸術家を刺激し、アダプテーションを生み出してきた。特に有名で、広く知られているのは、ソ連のアンドレイ・タルコフスキー監督、アメリカのスティーヴン・ソダーバーグ監督による映画化である(それぞれ1972、2002年)。どちらも原作の設定やプロットを基本的に使った「映画化」ではあるが、映画はやはり、小説とは別のジャンルの独立した作品と見るべきだろう。実際、タルコフスキーは原作にはない父と母のいる故郷(地球)の大地への回帰というモチーフを持ち込み、ソダ―バーグは宇宙を舞台としたミステリアスなラヴ・ロマンスを作り上げた。これには生前のレム自身いたく不満で、罵りに近い批判をどちらの作品にも浴びせていたが、映画は映画として独自の価値があると考えるべきだろう。映画といえば、日本でも、いまをときめく濱口竜介監督がまだ芸大大学院在学中に制作した『ソラリス』(2007)という作品がある。
 ただ、他ジャンルへのアダプテーションの限界としては、原作の持つ複雑な科学的スペキュレーションや、奔放で幻想的、超現実的なソラリスの海のイメージなどが、どうしても再現できない、ということがあるだろう。上記のプロット紹介ではあまり踏み込んだ説明ができなかったが、『ソラリス』という小説の重要な柱となっているのは、宇宙ステーション上の人間たちの緊迫したドラマだけではなく、長期にわたる膨大なソラリス学の展開と蓄積をめぐるメタ科学史的記述であり、またソラリスの海という絶対的な他者の変幻自在なイメージそのものだった。
 映画以外のジャンルへのアダプテーションも多い。藤倉氏によるオペラ化以前にもすでに、ヨーロッパやロシアでは、オペラ、バレエ、演劇などにアダプテーションされた例がかなりある。またミュージシャンによるオマージュも富田勲から坂本龍一に至るまで少なくない。そもそもタルコフスキー監督の映画は、アレテーミエフによるバッハを素材とした電子音楽によって大きなインパクトを持つものだった。
 そういった前例と比べた場合、藤倉大・勅使川原三郎による『ソラリス』の新たなオペラ化の試みは、非常に画期的なもので、ソラリス史上革命的なものだと言っていいのではないだろうか。 原作のスペキュラティヴな広がりは、4人の登場人物に絞り込まれた究極の空間に凝縮され、室内オペラ的なまとまりの中にコズミックな豊かさと複雑さが表現され、現代的でシャープな舞台美術と藤倉氏がもともと持っていた、地上的な官能と宇宙的な神秘への志向の両方が渾然と溶け合い、『ソラリス』の原作を単に反復するだけではない、独自の演劇的・音響的空間を作り出しているからだ。残念なのは、原作者のレムがもう世を去って長く、このオペラを観られないことだ。もし彼が生きていてこれを観たら、驚嘆するに違いない。

沼野 充義 Mitsuyoshi Numano

1954年東京生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授(現代文芸論・スラヴ語スラヴ文学研究室)。東京大学教養学部教養学科卒業、同大学大学院人文科学研究科、ハーヴァード大学大学院に学ぶ。専門はロシア・東欧文学。『徹夜の塊―亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞受賞、『徹夜の塊―ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞受賞。『世界文学から/世界文学へ―文芸時評の塊 1993-2011』(作品社)、『屋根の上のバイリンガル』(白水社)など、著書・訳書多数。


<歌劇『ソラリス』の音響について>

地球上では考えられない様々な出来事が起こる惑星ソラリス。レムの原作が持つ独特の世界観を表現するため、藤倉大による歌劇『ソラリス』では通常のオーケストラと同程度のパワーを持った電子音響が使用されます。オーケストラ奏者や歌手が発したエネルギーをリアルタイムで加工する仕組み(ライブ・エレクトロニクス)は、この作品のために藤倉がパリのポンピドゥー・センター内にあるIRCAM(イルカム※)の技術士ジルベール・ノウノと共同開発したもの。今回の日本初演ではd&b audiotechnik社の協力により、パリ・シャンゼリゼ劇場での世界初演でも使用された同社製のスピーカーをコンサートホールの客席内に合計20個設置した最高品質の音響空間を実現! 舞台上の演奏者による音楽と同時に生成されたエレクトロニクスが客席内で混ざり合う、新しいオペラをお楽しみください。

※IRCAM(フランス国立音響音楽研究所)は、藤倉とも師弟関係にある音楽家ピエール・ブーレーズが1977年に設立した音楽・科学技術を研究する施設。

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